八つのほこり

 八つのほこりというのは、日々、知らず知らずの間に、遣うものでございまして、知らず知らずの間に、積もり重なりやつきものゆえに、ほこりと聞かせられるのでございます。

 

ほしいというほこりは、分限すぎたものを、ほしいと思い、値のないのに、ほしいと思い、人の物を見ては、ほしいと思い、すべて己が身分を思わず、たんのうせずして、ほしいほしいという心が、ほこりであります。

 

をしいというのは、納めねばならぬものを、おしいと思い、返さねばならぬものを、おしいと思い、人に貸すものを、おしいと思い、義理をするのを、おしいと思い、人に分配するのを、おしいと思い、難渋に施すものを、おしいと思い、人のために暇をついやすのを、おしいと思い、すべて出すべきものを、おしいと思うはもちろん、人のたすかること、人のためになることについやす物事を、おしいと思うは、ほこりでございます。また、身おしみという、横着するのも、をしいのほこり、と聞かせられます。

 

かわいというほこりは、可愛いという愛情のないものはない。その愛情に引かされたり、おぼれたりする愛着心と、いま一つ、だれかれのへだてして、その者にかぎり、べつだん可愛いという偏愛心とが、ほこりでございます。

 

にくいというのは、われの気にのらん、または、虫がすかんとて、罪なき者を、にくいと思い、粗相したり、過ちがありたからとて、にくいと思い、われに無礼をしたとて、にくいと思い、すべて、自分の気ままの心、邪険の心から、人をにくいと思うのがほこり。

 

うらみというのは、己の思惑を、邪魔されたとてうらみ、人を不親切だというてうらみ、また、人の親切も、かえって仇(あだ)にとってうらみ、人の粗相も、意地からしたように思うてうらみ、すべて、己のあしきを省みず、人をうらむはもちろん、いんねんの理から成る、という理を悟らずに、ただ、人をあしく思うてうらむがほこり。

 

はらだちというのは、人が自分の気に入らぬことを言うたとて腹立ち、間違ったことをしたとて腹立ち、自分がおもしろくないために、さもなきことに腹立ち、すべて広く大きい心を持たず、堪忍、辛抱をせずして、気短かな心から、腹立てるがほこり。

 

よくというのは、人並みよりは、よけい己が身につけたいという心、理にかなわんでも、人が許さんでも、取り得る限りは取り込みたいという心。ひとつかみに無理なもうけ、不義なもうけをしたいという心、あるが上にも何ぼでも、我がものとしておきたい心、すべて、一般に、欲の深い人やと言われるような心と、ごうき、ごうよくというようなよくがほこり。

 

こうまんというは、知らぬことも知った顔で通りたい、人よりも、えらい顔して通りたい、威張って通りたい、自分の言条(いいじょう)は、理が非でも通したい、自分の非は理にして通りたい、人の言条は、なるべく打ち消したい、逆らいたいというような心、すべて、一般から、あの人は偉そうにする人やとか、あの人は我(が)が強い人やとか、言われるような、高ぶる心と強情とは、こうまんのほこりでございます。

 いろいろな心のにごり、心得違いが、日々、身に行いに現れてゆきますから、結構な楽しき世界が、妬(ねた)み合いや、嫉(そね)み合い、喧嘩や、口論、罪つくり、おもしろくない世、となるのでございます。また、その心得違いが、積もり重なり、めいめいに天の理にせまりて、身上の煩いや、患(うれ)い、災難となって、苦しまにゃならんのでございます。よって、すべての心得違いを改め、心の濁りを澄ましてしまい、誠の心を働かせ、誠の理が積もり重なれば、天の理として、難儀、不自由はできやせん。病もうというても病まりやせん、と聞かせられますによって、なんでも、誠一つを、日々に、行わしていただかにゃなりません。